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boutiquelauryn

Beginning of June and How I feel now

更新日:2023年6月3日




最近、有機野菜や古代野菜(昔からある株で品質改良されていない野菜)というものを食べる機会が増え、そんな時は野菜本来の苦味やえぐみを味わっています。



実は野菜は、この苦味やえぐ味が美味しんですよね。こだわり野菜を続けて食べた後にスーパーで買ったものを食べると、味が薄いな……..と感じることがあります。



個包装されていない有機野菜や古代野菜はたまにオマケの虫に驚いたり、苦過ぎる味覚に行天する時もありますが、そもそも野菜は自然の生き物で個体差があって当たり前。



そもそも美味しいという味覚も、みんな一緒じゃない。





そういえば子供の頃には母から「人は人、あなたはあなた」と言われた言葉に妙に納得でき、昔からなんでも均一化することに疑問を持って育った。



だから、自己肯定感をあげよう!とか、今日もご機嫌に過ごそう!って言葉に


居心地が悪いなー、なーんかムカつくなーっことがよくある。


誰でも自信をなくして落ち込むことだって、ただ何かにムカつく時もある。(はず)


それは喜怒哀楽を素直に感じているだけで、むしろ人間らしいと私は思う。


何に怒っているのか分析して、感情の原因に向き合って、怒りを抑えて、、、、、


それで、いいのかな。もうすっかり大人年齢の私ですが、どうもしっくりこない。


自分の感情に蓋をして自己肯定感が上がり、自分を好きになれるのかな。


自分の感情を隠して“大丈夫”そうに振る舞う、人様に自分を晒さない、それが大人。あれ?


こんな風に違和感を言葉にしているのは最近のこと。



子供の頃から、納得できない何かに、理解できない感情に、自分についていけない自分がいた。



自分以外の人が“しっかり”していて、自分だけが取り残されているような ポツーンと感



寂しいとか悲しいとかとも違う、あれ?私はみんなと何が違うの?感



確かに語彙力も社会人力もさまざまな知識レベルも劣る私ですが、自分の中から湧き上がる感情や感覚に小さい頃から敏感に生きてきた。



でも近くの大人や常識とは違う反応をしてしまうことで、



もっとしっかりしろ、ちゃんと考えろ、こういう時は〇〇するべきだ、そんなだからお前は〇〇なんだ、と時折言われてきたけど



今思うと、全く理解不能な外国語で話しかけられているような感覚で、“しっかり”とか“ちゃんと”の意味が全く理解できなかった。



それでもポツーンとしれーっと自分なりに大人の真似をして、10代では人並みに、青春を謳歌し、背伸びをして、恋をして、挫折して一生懸命生きてきた。



周りなんて見る余裕もなく、自分の見ている世界の中に自分を存在させるために必死だったのに、気づいたらみんなしっかり大人の階段を登っていた。



私は大人っぽく振る舞っていたけど、まだ階段すら見つかっていなかった。




今は40代になって“自分らしさ”みたいなものがほんの少しわかってきたように感じる。


30代の時は“自分らしさ”をわかったつもりでやってきた。


20代の時は“自分らしさ”なんて気にしたこともなく、これが自分だと決めつけていた。


世間の価値観と自分の価値観や感覚との差に違和感を感じるようになってきた時に初めて意識した自己肯定感という言葉。



無知な自分を隠すように肩で風を切って堂々と歩いて、強そうに(本当に強かったのかも)生きていた20代の頃には、自己肯定感なんて意識もせず耳にも入ってこなかった。(当時、自己肯定感という言葉自体がこんなに目立っていなかったのだけども。)本当に無知で頑固だった。


勢いで生きていたから20代の記憶も乏しい。皆さんもそんなもんでしょうか?私だけかな?



30代は20代を反省する人生だった。


ゴリゴリのバリアを放ちながら隠せもしない自分を隠すように飾りながら生きてきた20代に気づいてしまった30代。


自分を敵にしないように、自分で自分を否定ばかりしないように、“しょーがないじゃん”を覚えた。


人や世間と比較ばかりしたり、しょーがないじゃんを連呼して自分ばかりを甘やかしたり

(納得できない人の意見には厳しいくせに)、30代も絶好調にトンチンカンな時期もあった。



絶対に自分には無理(やる気ゼロ)なことも、


頑張ったらできるけど無理(やりたくない)ってことも、


無理でもないけどしたくないんですよねーってことも、


逆にやりたいけど始め方がわからない(モジモジしてるうちにやる気無くなっちゃう)とか、


これは本当に自分がやりたいことなんだっけ?(←無駄に何度も確認しやらないことを選ぶ)とか、


今更できない、知らないことだらけとか20−30代だったら自分から直接誰かに聞いたりすることも出来なかった。


人のことばっかり気にして何にも出来なかった。


自信がなくて何か新しいことにチャレンジする自分をカッコ悪いと思い込んでいた。



でも40代になってみて(と言ってもまだ始まったばかりだけど)


自分で自分を諦めてしまうことが突然嫌になった。


まだやったこともないのに、出来ないなんて誰が言った⁈ わ‼︎ 自分が勝手に決めつけていたのか!


そんなの嫌よ、勿体無い!


自分で自分には可能性がないことにしていた。


もうそんなに自分を追い込まなくても、意地悪にならなくても、もっと素直に生きようかなーって


どこかで感じた瞬間があった。


それは自己肯定感が高い低いとかではなく、自分自身を嫌って、挑戦する勇気を自分で奪っていたから


なーんだ自分か!全ての原因は自分だったのか!ということを気づかないわけにはいかなかった。


素直に喜怒哀楽を表現する(喜怒哀楽を自分自身で感じ取れる)ことは 自分の感情に蓋をしないことだから無駄に自分嫌ったり傷つけたり否定しなくて良い。


嬉しかったら喜んで、腹が立ったら怒って、悲しいことがあったら思いっきり悲しんで泣いていい、楽しいことは思い切り楽しめばいい。



だから


自己肯定感を上げよう!ご機嫌に過ごそう!なんて軽々しく言ってくれるなと心底思う。


自己肯定感を高めよう〜

なんてできるわけねーだろって時に言われたら本当にムカつく。


自分のことが嫌いな時ってあるよね。


もうやめとこー、こうやって自分で自分にストレスかけるのやめとこーって思ったって、


今日の自分イケテナイわー、カッコ悪いわー


って思う日はある。


そんな日はしっかり落ち込んで、自分にめっちゃムカついて、ついでに誰かや何かにも八つ当たり気味にムカついたっていいんだって思えばいい。


そっちの方がよっぽど健康。


大丈夫だよ、って大丈夫じゃない時に言われて死ぬほどムカついたこともあった。


大丈夫だよって言葉は優しさだったのかもしれないけど、


そんな優しさを跳ね除けてムカついてもいい。(むしろ仕方ない)


自分に素直でいれば、後からでも


「先ほどのあなたの優しさに腹を立ててしまって申し訳ない、今はもう大丈夫、今、ちゃんと大丈夫になったから、さっきの大丈夫って言葉に感謝できる、ありがとう」と言えばいい。


優しさだけで生きられるほど、人生甘くない。


だから素直に生きて楽しんで悲しんで怒って喜べばいい。



もっと感性を大事にシンプルに生きたら、人生が終わるときになかなか深みがあったんじゃないの?


って自分で思えたら最高に幸せなんじゃないのかな。


3月に最愛の祖母が他界した。祖母は自分に正直に、喜怒哀楽丸出しで生きていた。



人から見たらわがままな女に見えただろう。



でも私はそんな祖母が羨ましかった。



自由で、素直で、楽しそうで、辛そうだったし怒って拗ねて全てを丸出しにしていた。



彼女の人生は濃厚だった。山あり谷あり(山あったら楽しんで)谷あり谷あり谷ありまくり。



それでも祖母が人生の幕を下ろした後にみんなの記憶に残したのは、彼女の笑顔ばかり!



私もそんな風に生きたいと、自分の言葉を残したいと思いました。


みんな自分に素直に、個性を受け入れよう(楽しもう)って話でまとまったかしら?笑


最後まで読んでくださってありがとう!今日も長いね!笑


YUKO







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